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悠久の森 白神

白神の文化

 白神山地や周辺地域では、平野部には見られない山岳地域特有の文化が根付いていました。現在では珍しくなったものや、見られなくなってしまったものもあります。

■マタギ

詳しくはクリック マタギとは狩猟民のことでです。ブナ帯では、動物の餌となるブナ、クリ、トチ、ナラ類の堅果が豊富であり、また、下生えの食用となる植物も豊富です。そして、川を遡上するサケ科の魚も多く、ブナの森は豊饒の森であり、餌の種類と豊富さから多くの動物が生息するのに適した環境でした。それゆえ、それらの動物を狩猟する人間にとっても生活を支える好条件が備わっていることを意味しており、狩猟を生業とするマタギも必然的にブナ帯に多く住むことになりました。

■木地屋

詳しくはクリック ブナ帯では、豊富な木材資源を活用した木器づくりが発達しました。なかでも、木地屋は、木を加工して木器をつくる専業的な工人で、曲物師、くりもの師、ろくろ師などと称しました。




■鉱山開発

詳しくはクリック 白神山地周辺では古くから鉱業も盛んでした。そのなかでも、弘前藩の尾太鉱山(西目屋村砂子瀬)が最大で、銀・銅・鉛の非鉄金属を大量に産出しました。尾太鉱山の創業は、慶安3年(1650)に尾太寒沢で銀の採掘が開始されたことから、この頃と考えられますが、本格的な銀採掘の操業が始まるのは延宝年間(1673〜1681)です。しかし、銀産出の最盛期は延宝年間で、その後は銅鉛生産が中心になりました。弘前藩は財政負担を軽減するために、鉱山の経営を直営から山師の請山(請け負い)に転換しましたが、享保19年(1734)には銅鉛の大鉱脈が発見され、尾太鉱山は最盛期を迎えました。最盛期の鉱山の総人数は2300〜2400人ほどで、そのうち採掘を行う鉱夫は800人に達しました。その後、銅鉛の産出減少や坑道の出水などのために19世紀に入ると鉱山は縮小し、明治の廃藩とともに一時操業中止となりました。その後の長い休止を経て、昭和27年(1952)に操業を再開しましたが、昭和53年(1978)に閉山しました。
 一方、秋田側には秋田藩の太良鉱山(藤里町)がありました。鉛を産出する太良鉱山は文永年間(1264〜1274)に開発され、近世後期から大正期にかけて最盛期を迎えました。第2次大戦後も古河鉱業太良鉱山として操業しましたが、水害により昭和33年(1958)に閉山しました。
 太良鉱山は近世期は秋田藩の重要な鉛鉱山でした。慶長19年(1614)には、播磨(現兵庫県)の山師が太良鉱山の鉛採掘を請負っています。秋田藩を代表する阿仁銅山の銅から絞銀(精錬して銀を採取すること)する際に必要な鉛は、太良鉱山の産鉛であり、秋田藩の銀産を支える鉱山でした。また、19世紀初頭に太良鉱山を訪れた菅江真澄は「菅江真澄遊覧記」に当時の太良鉱山のようすを記しており、太良鉱山からの鉛運搬による賃稼ぎが山地住民の貴重な収入源であったことがわかります。

■山岳信仰

詳しくはクリック マタギが単なる鉄砲撃ちと異なるのは、山の神を信仰していることにありました。彼らは、すべての獲物は山の神の授かりものとし、定まった作法で解体作業を行い、その霊をなぐさめる意味もあって、毛皮から内臓にいたるまで捨てることなくすべてを利用してきました。


■薪炭生産

詳しくはクリック 白神山地では近世期から薪炭生産が盛んに行われていました。江戸時代に白神山地を訪れた紀行家の菅江真澄も「菅江真澄遊覧記」に薪炭生産の様子を記しています。秋田側の山地では、炭焼きが主な生業であり、ブナやミズナラなどの炭焼き用の木を伐採した跡には、小柴を焼き払って焼畑を行い、粟稗を作っていました。青森県西目屋村では目屋ダムができるまでは、村のほとんどの者が炭焼きに従事していました。西目屋村で生産された「西目炭」は有名で、津軽地方の需要を満たしていましたが、今ではほとんど生産されていません。
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